昭和43年10月9日 朝の御理解       (信太郎)



 御神訓の中に、天に任せよ地にすがれよとあります。天に任せよ、地にすがれよ。この御教えを頂きますと、信心をさせて頂く者の、まあ、いわば最後の切り札といったような感じで、こう受けますけれども、それは間違いだと思う。もう、いよいよ、どうにも出けん時には、もう、こうするより他にないと。ね。運を天に任せて、というような感じですけれどね。これは、信心をさせて頂く者が、常平生、この気持ちでなからなければならない。ね。常平生が、この気持ちが必要です。ね。もう、いつもが、天に任せるという事は、神様にお任せする。成り行き任せ。ね。これが、もう、いつも言う、この、何か非常に厳しく、もう本当に、あの、ギリギリの時とかね。いわゆる、最後の切り札的な感じで、これを、あの、受けるのではなくて、これを、私どもの日常、信心生活の中に、この御教えが生きて来なければならんと思うですね。天に任せよ、地にすがれよ。だから、いつもお任せした、お任せしたという信心生活。お任せの生活とだけでは、こう、あまりもの信心ですから、いわゆる、地にすがれよというところ。ね。いわば、成り行きに任せる。神様にお任せしきるというだけでは、あまりもの信心ですから、地にすがれよというところを、私どもは、ね、大事にしなければならんと思うんです。ね。地にすがる。そこに私どものこの信心の精進と言うかね、信心の修行と言うか。生き生きとした信心がこの地にすがるところから生まれて来る。ね。その大地にすがり抜かせて頂くというような信心。ね。そういう信心の上に立った、天に任せよでなからにゃいかん。言うならば、人知の限りを尽させて頂いての天に任せるでなからなきゃいけない。人知の限りと言うと、ちょっと、まあ、間違っておられませんけれどもね。何と言ったら良いでしょうか。言うなら、一生懸命の信心をさせて頂いてから、そして、いわば出たとこ勝負と申しましょうかね。その出た所に、まあ、大げさに言うなら命を掛けて行く。出た所。ね。に、そこに、自分の在り方というものをハッキリ定めて行く。それを神乍として受け抜いて行く。ですから、この御教えは本当にこの、神乍なおかげというのが、言うなら、人乍の信心と、幽?は一体とでも申しましょうかね。人間と神様とが一生懸命に働き合うというようなところから、いわゆる、絶対のおかげがね、生まれて来ると。ね、神様にお任せする、お任せしきる。ね。言うならば、神様が棟梁。ね、私どもはその、(したところ?)一箇所を受け持っておる、まあ、職人のようなものだと。棟梁任せと言うて、棟梁にだけ任せておる訳にはいかん。その、例えばね、一軒の家が建つに致しましても、ね、大工もいりゃ左官もいる。指し物屋もいる。ね。全ての物が、ね、必要であるように。棟梁は神様。ね。その、例えば部門の部門を承っておるのが私達。ね。そこに、ね、棟梁が一生懸命なら、いわゆる、私どもも一生懸命。ただ、天に任せというのはね、天に任せといっただけなら、棟梁だけに任せておるような感じがする。ね。棟梁がしっかりしてるから。もう、神様にお願いしときさえすれば。お任せしときさえすればというような事では、本当なおかげになって来ない。いわゆる、地にすがるという信心。ね。神様お任せしますと。そのかわり、私どもも一生懸命になりますと、というのが、地にすがるという事。ね。ですから、神様も一生懸命に、これは、ね。神様も一生懸命に働いて頂けれると言うかね。為には、やはりこう、任せなければいかん。神様にも御一任せにゃいかん、お任せしきらにゃいかん。そこに、神様がね、十分働いて来なさる。いわば、あの、心配する心で信心せよというのは、それなんです。ね。心配する心。心配は神様にして頂く。ね、信心は私どもがさせてもらう。心配する心で信心せよと。ね、御心配は神様にして頂く、采配は神様に振って頂く。信心は私どもがさせてもらう。ね。ところが、神様に心配してもらい、神様にどうぞと言うてお願いしながら、その心配を、また自分達が持って帰るから、仕事が手に付かん。これをせんならんという事が分からん。ね。氏子が心配するとは、神が心配せんで済むと仰るようにですね、その、神様を十全に働かせて、働かせてと言うとおかしいですけど、働いて頂く、いわば為には、私どもが神様にね、お任せする。言うなら、神様に御心配を御一任する。そして、その心で私どもは信心を一生懸命すると。信心せよと。ね。天に任せて、任せよ地にすがれよというものは、そういう内容だと私は思う。普通ではこれをね、ただ、信心をせよ。けれども、いよいよ何かの時には、もう例えば病気なら病気、医者に見放されたと。ね。もう、神様にお任せするより他にはなかと、こう言う。だから、お任せするより他にないからお任せするのは良いけれども。なら、お任せしただけじゃいかん。地にすがれよという信心せにゃいかん。ね。そこに、しかもそれがです。ね、もう、医者からはサジを投げられたから、というような時にこれは使う御教えではなくて。この御教えが、私どもの日々の信心生活の中に、これが生きておらなければならない。いつもが、神様任せなのだ。いつもが成り行き任せなのだ。いつも、運を天に任せてあると言うのである。自分達の入って行く世界じゃない。もう、神様の、言うならば世界だ。ね。それでいて、私どもがいつも信心の精進は怠りなく、こう、地にすがっておるといったような信心が、ね、目に、これは、まさかの時といったようなものではなくて。ね。常平生、日々がそういうおかげを頂かせてもらうところからです、ね、生まれて来る体験。そして、そこから、なるほど神様にお任せしきっておけば、成り行きを大事にさえして行けば。ね。そして、神様におすがりさえして行けば、なるほど心配は自分でするもんじゃない。心配はお取次ぎを頂いて、お取次ぎの先生にお任せする。心配は神様にお任せする。そして、私どもは私どもの場であるところの修行に、ね、信心せよと仰る。そこんところに、一生懸命になる。いわば、どのような場合でもおかげが受けられるという、私は確信が生まれて来るところからです、日々安心の生活が出けるのじゃないかと、こう思う。ね。日々が安心の生活の出けれるおかげを頂かせてもらう。為に、天に任せよ、地にすがれよというこの御教えをです、日常信心生活の中に、いつも生き生きとこの御教えがしておかなければならん。そこで、私は思うのです。ね。なら、このような、なら素晴らしい信心をですね、私どもが、もう身を持ってですね、それを現して行けれる、いわば、まあ、言うならチャンスとでも申しましょうか。はあ、これはなるほど、ね、天に任して地にすがるといったような事でもですね、例えば、そこに私の願いというかね。まあ、言うならそれが、後から考えて見ると我情であったり、我欲であったりする場合がありますよね。例えば、どうぞ商売繁盛させて下されいと言うて願う。ね。一生懸命願う、そして修行させてもろうて、そして、神様にお任せする。そして、自分の思うように行きゃおかげと言い、思いに行かなかったら、おかげ頂かなかったように思う。ね。これは、やはり(  )の焦点というものが、よくよく考えて見て分からなきゃいけないところがある。ね。私は思うのに、これならば間違いがない。ね。ここに焦点を置いてこの御教えを自分のものにさせてもらう。ね。これは私の過去の信心体験ですけれども。本当に一番信心によって、自分でその、力を得たと言うか。この、なるほど、この生き方でさえ行きゃおかげ頂けるぞと思った事はですね、もうどういう難儀な中にあってもね、それがこと、神様が喜ぶ、今から考えて見てからです。そん時はそうは感じきらなかった。今考えて見るとです、神様がお喜び頂けれるような事を焦点にして祈った時。しかも、その祈りが天に任して地にすがった信心が出けた時。それが、もう、必ず、もう必ず見事なおかげになっておったという事です。ね。まあ、例えて申しますとです、なら、御本部参拝なんかがそうでした。もう、ああいう、もう、色々なものに逼迫し、困窮しておる状態の時に、毎月御本部へ月参りをさせて頂いておる。ね。いやあ、もう本当に、その、そこに旅費なんかが捻出される、ない時なん。もう、(      )しもうてない、何もない時なん。それでも、やはりですね、あの御本部参拝という事が、いかに神様のお喜び頂けた事であるかという事をです、もうやっぱり、もう本当にどんな場合でもおかげ頂くんです。ね。団体参拝を致します。ね。もう、皆さんが旅費をみんな、もう払い込んでしまってある。私は、まだその旅費が払い込みが出けてない訳なん。それでも、お参りさせて頂きたいという願いだけは捨てない。もう、いよいよ出発の日になって来ると、やはり御本部参拝の準備だけはしてから、教会に行く。ね、ギリギリまで思いを捨てない。本当に汽車に乗り際に、だから、もう皆、私は払い込んであってから、お参りが出けるもんと思うとる訳ですよね、みんな。けれども、私は断念しない。ね。もう、それこそ、はあ、私はこげなとで、また旅費も納めとらんけん、誰か貸して下さらんかと、まあ、言うた事もありません。ね。もう、言うならば神様を信じきってそうさせて頂く。ね。お参りはどうでもこうでもという気持ちである。もう、それこそ、汽車に乗る間際まで思いを捨てない。そこにはね、もう、それはそれは、不思議な不思議な働きがあって。ね、ちゃんと旅費が収められて行く。ある時なんかは、片道だけおかげ頂いた。あん時、でも思う。片道でどうして参ったじゃろうかと。帰りは歩いて(       )つもりじゃろうかと。今から思うとでも、もう、ただ御本部行きさえすりゃ良いという一念ですから。そして、帰りは帰りにちゃんとおかげ頂いて帰って来た。団体参拝の時に私が色々ご用をさせてもらう。もう、ちゃんと弁当もこしらえて、あの時分は(               )もう、御本部参拝をする用意をして、御本部にも前の人達が皆お広前に集まって来る訳ですね、善導寺の教会でです。したら私は、机にかかってから、その皆さんのバッジの用意をしてあげたり、ね、旗の用意をしたり。それから、その、お米やらを皆持って来なさるでしょう。そのお米やらの処理させて頂いて(配る?)訳です。だから、もう当然、私はもう参るもんと皆が思うとる訳ですよね。もう、その用意して来とりますから。ね。それで、その私が用意させて頂きよる時に、もう、私がいわゆる参る風にして来とるもんじゃけん、ある方が私にですね、大坪さんおかげ頂いたばいのと、こういう訳なんです。いわゆる、旅費の方はあげん言いよったばってん、やっぱおかげ頂いたですかと、こう言う訳なんですよ。ね。そこで私が言う。いいや、まだおかげ頂いとらんばってんか、私はどうでんこうでんお参りするつもりだからと言うて、その人と話しよる話を、ある人が聞いておった。ある人と言い、まあ、言うなら久富まさきさんのお姉さんです。久富、今、小郡におります、しげるさんという方です。お参りするつもりでおったけれども、ある事情でお参りが出けなくなった。だから、その断りに来てるんです。だから、せっかく自分がお参りさせて頂こうと思いよったのが、お参りが出けんから、そんなら大坪さん、私の代りに一つ参って来て下さらんかという事を思った、その話を聞いておってから。ね。例えばね、そういう例は、もう、これは御本部参拝だけじゃないですけども。こと、大祭だと、ね、お供えはこれこれ、最低費はこれこれと決めさせて頂いたが最後ですね、もう、必ずおかげを下さったんです。いわゆる、天に任せておる訳ですね。そして、地に縋り抜いてる訳なんです。最後の最後まで思いを捨てない。もう、その一念に燃えておる。もう、必ずおかげを下さったです。そこで、私が思うた。ははあ、御本部参拝とか、大祭とかと。言うなら、こと神様事の時に、このような気持ちでお供えすれば、このようにおかげを頂くのに、自分事、私事の場合に、いくら天に任しても、地にすがっても、おかげ頂けんのは、これは自分事の中にまだ不順なものがあるからだと、私は分かったです。それで、自分事の願いであっても、不順なものにない、無くなって来れば、これは、自分事でもおかげが頂けるぞという確信がいよいよ出けて行ったです。ですから、改まらなければおられなかったのであり、本気で美しゅう磨かなければおられなかったんです。ね。例え、それが自分事であっても、私事であっても、ね、不順なものがないなら、私はその御本部参拝のあの純真な心一筋で参ろうとしておる。御大祭と言やあ、年に何回のこの御大祭は、信者としてどうでもこうでも、私どもがおかげを頂いとかにゃいかん。先生が奉仕しなさるのじゃない、私ども一人ひとりが奉仕させて頂くんだという一念に燃えて願う事が、一つひとつ、ギリギリ成就して行ったと。そこに、神様をいよいよ信ずる力が生まれて来た。ね。天に任せて地にすがるという、この素晴らしい御教えもです。ね。それが、はあ、天に任して地にすがれば各おかげが受けられると信念されなければ、こういう御教えは役に立たない訳なんです。そげん言いなさるばってん、やっぱおかげは受けられんちゅう事になる。けれども、天に任せて地にすがればおかげになると。ね。それが、私は確信出けたのは、こと、それが自分事ではなくて、神様の事であるといったような場合には、必ずおかげを頂いたから。ね。私どもの心の中に、その神様事の場合のような、純粋な信心で、祈り願うというだけではなく、天に任せて地にすがる気持ちであれば、おかげが頂ける事が分かり。これは、自分事の場合であっても、ね、そういう、いわば純度が高くなると言うかね。そういう自分事の願いの中にでも、我情我欲のない願いであり、一心になって来る事によって、おかげが受けられることを体験させて頂いた。いよいよ、記念祭、教祖大祭がああして、この16日に奉仕されますが。その16日の御大祭も、もう後わずか、まる一週間になりました。一週間後に奉仕されます。それで、皆さんどうでしょうかね。その、後一週間になった。その、わずかな日にちをです、記念祭に掛けられたらどうでしょうか。御大祭にかけられたらどうでしょうか。誰ん待たんでも、頼まんでも、16日という日は来るです。だから、そん時に何がしかのお供えもして、そしてお参りすりゃそれで良いといったような人達も沢山ありましょう。けれども、今日私が皆さんに分かってもらいたい、天に任して地にすがるといったような信心が、日々の信心生活の中に溶け込んで。ね。そういう、なら、信心が、私事ではない、こと神様事。ね。まして、一年祭というのは、またとない仕えられない記念祭。ね。一年祭の時には、各信心して、各おかげを受けたという、いよいよ体験を頂きたい。ね、その一年祭に、私は信心をかける。ね。私が御本部参拝にかけたように、御大祭にかけたように。ね。物事というものは、もう後一月。よし、あと一月になったら、一月そっから頑張ろうとか。もう、後10日。ね、後一週間。それに、今日ちょうど、そういう切り目が、今日が一週間。ね。15日まででちょうど、まっ、15日。前夜祭までで、まあ、一週間、今からあります。その一週間をです、今までかけられなかった願い。今まで出けなかった修行もです、記念祭のためにかけたらどうでしょうか。これだけの信心ならいつも出けとるです。ね。ですから、記念祭のための信心。御大祭を向かえる為の修行と。そこをです、もちろん、神様に御一任する、神様が棟梁。私どもは、その一つひとつを承っておる部分。どの一人がかげても、本当の立派な家が建たない。ね。棟梁と他の職人。いわば、一、私どもは職人であると。自分達がどこか手を抜くといったような事ではなくて。そこんところを、一つひとつをです、私はおかげを頂く。まあ、言うならば、ね。各会の中心になろう。自分の部落の、自分の町の中心になろう。ね。例えば、ここにまあ、角さんがおられるが。北野地区の方だけは私が引き受けました。ね。その為には、私に力を頂かなきゃ出けません。そのかわりに、私が修行を致します。北野地区の方だけは私が受け持ちました、というようにです。ね。この事だけは私が引き受けましたと。いや、私にそのご用をお許し下さいと。ね。その為には、私が力を頂かなきゃ出けません。私がご用させてもらわなきゃ出けません。ご用をお許し頂かなきゃならん。ね。その為に、例えば一週間、かくかくの信心修行をさせて頂きます。ね。天に任せて、ね、地にすがるところの信心を、私事ではない。ね、その記念祭にかけたらどうでしょうか。今朝から、只今から。一週間ありますから。ね。一週間も、それぞれの自分の願いというものを立てて。その願いにかける。願いに向かってです。ね。もう、私だけ、私事の小さい事じゃない。ね。今までの願いより、一段大きくなった願いをここに立てて。ね。今日から私どもの部落だけは、私が受け持ちます。私に受け持たせて下さい。ね。それには、今から、いわばお導きをしとかにゃいかん。さあ、16日は御大祭です、記念祭です。日頃お参りが出けない人でも、どうぞ記念祭には、どうぞおかげを頂いて下さいと、御案内の行く前に、例えば御案内を持って行って。ね。そこんところの、例えばこれは、御参拝なら御参拝という事の上においてだけでもです、そういう御用を、もうちょっと、一週間前から祈りを込め、修行を込めてさせて頂いておく。ね。誰か(来らんなさろうから?)、誰か言いなさろうからといったようなものではなくてです。一人ひとりが、そういうお役に立たせて頂こうという願いをです、ね、立てさせて頂いて。それが、こと教会のこと。こと、お広前の事。ね、こと神様のことに、私が今日申しますように。ね。思いをかけるという事は、これは、もう純粋なものなん。もう、神様が喜んで下さらんはずがないこと。神様の喜んで下さらない事はないはずの事にです、一つ願いを掛けて見る。そして、なるほど、こういう信心させてもらえば、本当に神様はこのようなおかげを下さる事が分からせて頂くという事が、私どもの力になるのです。ね。多いにして、自分の願いというものには、なかなか、そん時には分かりませんけれども、不順なものが多いのです。ただ、私がおかげ頂きゃ良いという、その我情我欲が多いのです。ね。ですから、こと、その願いを少し大きいものに切り替える。しかも、この一週間切り替えて見る。そして、神様のお働きをこのように頂ける事を確信持てれるようなおかげを頂かせてもろうて。そういう信心が、この自分の上にも当てはまるようなおかげを頂いて。これはおかげは受けられんのは、自分の願いに純粋なものがないのだと分からせてもろうて、いよいよ改まって行く事に、磨いて行く事に、いよいよ信心修行に一生懸命になりゃ、ね、おかげを受けられるという確信を持って、信心を進めて行く。楽しい信心が出ける為にも。ね。どうぞ皆さん、一週間後に迫った御大祭をです、お互い、銘々、ね、私に、これだけは神様が一任しなさったと、任せられたというような気持ちでです。その事を、ね、祈る。いわゆる、天に任せるだけではなくて、地にすがるところの修行をさせて頂いて。ね、有り難い御大祭を頂きたい。そして、まあ、昔の方が良く言いました。さあ、今度の記念祭で一徳受けるぞとと言うて弾んだもんですね。今度の御大祭で一徳受ける。ただ、御大祭にお参りしたぐらいな事で、お供えしたぐらいで、その一徳を受けるといったような事じゃない。その為の信心が、修行が出けて、初めてその事によって、一徳を受け、力を受ける訳なのです。そこから、いよいよ神様の間違いないお働きを感じ取らせて頂けるようなおかげを頂きたい。天に任せよ、地にすがれよと。これは、この御教えからですね、何かいよいよギリギリの時には神様にお任せするより他にはない、とったような感じで頂いておりましたけれども、そうじゃない。これは、もう日常の中に、お任せする(      )。ね。それも、これは、私ごとではない。ね。こと御広前の事。または、神様の事に、その事がかけられる。はあ、神様にこの喜び頂けれるような事の場合には、このようにおかげが頂けれる。そんなら、自分の姿勢と言うか、自分の内容と言うか、自分の思いというものもです、神様に喜んで頂けるような姿勢に、思いにならせて頂いて。そこから、天に任せ、地にすがる信心させてもらやあ、このようなおかげが受けられるという確信をですね、得て頂きたいと思うんです。どうぞ。